言葉の中

もうすぐふいみんが来る。
「あの話の続き」ができる。

 

ふいみんは20年近く、
製茶中に来て・製茶中に山を去る、あるいは、
まだ始まっていない・始まらないけど去る、とか。
まだ一度も、シーズン全ての新茶が出揃って
それを現場で飲んだことが無かった。
昨秋まで。

23秋初めて、
製茶中に来て・山にいる間に製茶が終了し、
できたてのシーズン全ての新茶を
この山の家で一緒に飲むことができた!!!
万歳ーーー☆

 

その時、
8シーズンぶりに製茶した新茶の
全種の確認評茶をふたりで完了した時、
製茶してきた過去約20年で感じたことのない
初めての感覚が来て、
それが自然に言葉となって出て、
目の前のふいみんに伝えていた。
『ほえ???』と言われた。(笑笑)

あの瞬間、
あの時感じた、
ふいみんへだからこそすっと心から出ていた「言葉」、
あの時の心の感覚が忘れられない。

その「言葉」が自分の中から出たあの時、
自分の過去たちが大集結して
大きな大きな扉が開いたんだ。

私、こう言っていた。

 

「もしかしたら。。。わたし

【鉄観音】作れるのかもしれない」

 

ふいみん『???』のまま止まっている。
もう一度言ってみて、自分でも聞いてみた。
笑ってしまった。
『いつも作っていますよ?』
いや、そういう意味じゃないんだな。。。
確かに「辞書的な言葉通り」なら『???』だね(笑笑)
でもそういうことではないんだ。
でも「愛子的にはその言葉通り」なんだ。
その時感じた心の感覚を表現するのに一番近い言葉。
今でもそれは的確な表現だったと感じる。
その言葉だけであの時のあの心の感覚が私には分かる。
なのだが。。。
その言葉の意味は「愛子」以外の辞書には載っていない。

説明が必要だった。
その「言葉の中」を、
そこに広がっている「心の景色」を、
20数年製茶して初めて感じたその「心の感覚」を。

ふいみんはすぐに察した。
今回はどんな意味なのだろう、と楽しそうに待っている。
数時間、一生懸命説明した。
言葉を換え、違う表現で。
帰国後もネット会議で続けた。
けれど、
まだ「あの時のあの心の感覚」を表現しきれていない、
そう感じている。

感覚の表現は難しい。
違う人間だから、どんな表現でも完全には不可能だ。
でもそれを知ろうとしてくれる人が目の前にいる、
そういう人と人生で出会えた。
それを表現しようと努力することが
私にはとても大切、
そこからたくさんの扉が開いていく。

 

あの話の続きが、今回の山でできるっ☆
お茶を介するのが一番だ、
しかもこの場所で。
表現&理解どちらも早い、深い。。。心が近づく。

 

そういうことか!!
お茶が心を近づけてくれるんだっ☆

 

先日の品茶会(「魂組」の研究会・新茶会)でも
23秋を飲んだ時、やはり感じたんだ。
もちろん話した、でも表現しきれていない。
どれだけ言葉を尽くしても、表現しきることはできない。
だから会話を重ねる、同じお茶を一緒に感じながら。
参加メンバーは理解しようと心を寄せて下さる、
私も一生懸命表現しようと心を尽くす、
お互いに理解し合おうと真剣に向き合い、
きちんと心を交わし続ける。
そういう方々との出会いがあって私は
目の前の素晴らしいお茶たちと出会えている。
心の繋がりがいつも新しい「何か」を生み出している、
そう感じている。

 

 

あの時、
「あの言葉」の先に、もうひとつ言葉が出た。
大きな扉が開いた先に、もうひとつ感覚が来たんだ。

 

「もしかしたら。。。わたし

【茶師】だったのかもしれない」

 

『はひ???』

ふいみん、「この中」を説明するのはかなり難易度高いや。
ただ、前世とかそういう話ではなく
現実的な話だと分かってくれているから話は早いよ。
一生懸命表現するから、気長に付き合ってくれる?
早くて数年。。。かな(笑笑)

 

気付いているんだ。
その言葉の景色は、他の人には見えないこと。
その言葉の感覚は、どの辞書にも載っていないこと。
「愛子の言葉の辞書」は「愛子の中」にしかないこと。
けれど、それを知ろうとする仲間がいてくれる限り
表現する努力を続けることが自分はできること。
そんな仲間の心が私の心を育ててくれていること。
だから前へ進めていること。

 

 

だからかどうか、分からないけれど。。。
繋がっているのかどうか、分からないけれど。。。

その約半年前、【あるもの】を見てしまったんだ。
仲間たちと一緒に、品茶会で。
そのことと、あの時の感覚と、関係があるのだろうか。
わからない。

ぞわぞわする。

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