農家で手作りされる高級クラスの碧螺春は、仕上がりの一鍋(時期によって100g〜200g)ごとに区別されて保管されるので、
同じ日でも一鍋ごとの仕上がりが若干違ってくる。
朝と午後では、鮮葉の状態も摘んだ畑も茶樹も違うし、風向きや気温や雨の有無などの気候の条件も違うし、
連続して炒れば鍋の温度などの条件も違う。
この違いもまた楽しみのひとつ。
私は、各条件から見て「ここだっ!」と思う日のお茶をすべて取り出し、一鍋ごとに《聞》して品茶し、
同じ日の中でも仕上がりのいい一鍋をいくつか選んだ。
産地の工場では何十台も鍋が並び、各地から運び込まれた鮮葉を何十人もの職人さんが朝から晩まで炒って、
それを全部混ぜ合わせ、その日のお茶葉になる。
さらに数日間を混ぜてひとつの等級となる。
だから、ある一日やある等級のお茶葉であれば、味は均等。
混ぜてあるからどの部分をとっても、たいして変わらないのは当然。
しかし、品茶セットにしようと思っている《碧螺春》はそうではない。
一鍋の中でも、味が違う部分が存在する。
たとえば《薪で炊くお釜のご飯》を想像してもらいたい。
一般家庭の電気炊飯器や工場で炊く大量のご飯に《おこげ》はなく、味は均等。
《薪で炊くお釜のご飯》のおいしいものには、必ずと言っていいほど鍋底にうっすらと《おこげ》がある。
うすい《おこげ》の香りに包まれた白いご飯の部分は更においしくなるけど、
《おこげ》だけ食べればそこには白い部分とは違う《味わい》があるし、
中には特にそこを好んで食べる人もいる。
同じように、おいしい《碧螺春》の一鍋の中にも必ずと言っていいほどうすい《おこげ》の部分が存在する。
これが私の言う《焦味》で、一鍋の中には必ず数パーセント存在する。
ごく数グラムのために、《聞(匂いをかぐ)》や《看(見る》ではわかりにくい。だが《泡茶》してみるとはっきりとわかる。
念のため、碧螺春の《香ばしさ》のことではない。
《焦げちゃった碧螺春》とも、全くの別物。(日記参照)
《碧螺春のおこげの味》は知られていないから、運良く(悪く?)当たってしまった人はどう思うか?
仕上がった一鍋の《碧螺春》は、壊れないようにそっとそっと扱い、工場のようにザカザカ混ぜたりしない。
だから、各10g前後の品茶セットには必ず《おこげ》大当たりの人が出てくるはず。
特に今年(03年)は非典(SARS)の問題があるので、たくさんの空気や人に触れる前に、
現地で協力していただき少量づつ真空にして持って帰ってきた。
《碧螺春》はすぐに少量づつ真空にすれば品質低下は防げる。
(一昨年に一煎づつ(4g)真空にした《碧螺春》が今春でもおいしかったのには驚き!)
心配なのは・・・
もしその《おこげ》に大当たりの人が、その味を《碧螺春》の味だと記憶してしまうこと。
もしそんな誤解をされてしまったら、飲み手にも作り手にも私は申しわけが立たなくなる。
だからと言って、一鍋全部を差し上げることも出来ない。
来年は、選んだ同じ日のいくつかの一鍋を現地で一緒にしてもらえば、品茶セットの数グラムを品茶して下さる方にも、
その後で追加の量が欲しいといってくださる方にも、「あら?」ということはなくなるはず。
問題は、今年・・・
さあ、どうするべきか・・・悩む、悩む、悩む。
みなさんが《おこげ》を《おこげ》として楽しんでいただけるかどうか…。
うう〜ん、お茶は生き物だとはいうものの、難しいな。
|